『推し、燃ゆ』読んだ

 

宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』を読了しました。(以下、ちょっとネタバレあります

 

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 

推しがファンを殴ったことから始まる物語。主人公・あかりはそのすべてを“推し”であるアイドル・上野真幸に捧げる女子高生。具体的な名前はないが精神的な病を二つ抱えており、推しのこと以外は日々のすべてを消化するように生きているように感じる。でも真幸のことになると、その生命に火が灯る。
コンサートに足を運び、グッズを買い集め、投票イベントに集中する。その時だけは莫大なエネルギーが湧き出る。最低限の生活すらこなすことができない肉体を引きずりながらも必死で生きるのは推しのため。あかりの生活はすべて推しのためにあった。推しの存在、その“推す”という行為そのものがあかりが生きる手段。

 

そのなかでも印象的なのが真幸の雑誌やテレビ、ラジオでの発言をすべて集めて書きつけたものをファイリングして“解釈”するという行為。推しという人がどういう人なのか、わかろうとして、その解釈したものをブログに書き記す。「推しの見る世界がみたい」と願う。私もかつて、担当の1年間の発言をまとめてブログに残したりしたこともあったので、わからなくもない。どういう人間なのか、わかりたいという気持ちは。


だけど、この物語は推しがファンを殴る、という、これまでそのすべてを拾い集めて堆積してきた推しのイメージからは大きく乖離する出来事が発端となる。

私はあかりと同じ高校生の頃、自分の担当が問題を起こして謹慎したことがあって。
当時はSNSなんてまだ栄えてなくて掲示板とかメルマガ文化。通学途中、駅の売店に並んだスポーツ新聞にでかでかと書かれた“少年A”が自分の担当だとは理解できなかった。目の前が真っ暗になり、なにも手につかなくなり自分の半分を失ってしまったような感覚。起きたことに実感がわかない。“自分の知っている担当”が起こしたこと、だとは思えなかった。「なんでそんなことしちゃったの?」「なんでそんなことになっちゃったの?」。ここは過去の自分の経験とリンクする部分もあってちょっと苦しかった(笑)。


今も、推しや担当や担当グループのメンバーに対して「やっぱり●●くんはこう言ってくれるよね」とか「私のすきな●●くんで安心した」とか…言動に対してすべてを解ることなんてできないのに、解ることのできる存在になることを少なからず願ってしまう。逆を言えば「●●くんがそんなことを言うなんて…」「そんな人だと思わなかった」と勝手にがっかりしたり、挙げ句すごく怒ったりする人をみたこともある。いつだって、彼らの本当の姿はわからない。でも、もしかしてこうなのかもしれない、『彼はこういうひと』と自分のしていた“解釈”からくるイメージと実際の発言や行動が一致したときにそれはなぜか大きな喜びみたいなものが生まれるから不思議だ。

だけど一緒に暮らしている家族ですらなにを考え、感じ、どうしてそんなことをするのか言うのか、わからない時もある。どれだけ頑張ってもその人の世界を見ることはきっと相手が誰であれ、誰にもできない。

 

あかりは真幸の見る世界をみたいと同化を願い、同化していると思っていた。私が私でいられる瞬間は推しを推す時。でもやっぱり私は、この世の中の誰とも完全に同化することはできなくて、あかりが同化していたのは、一人の人間としての上野真幸ではなく“推す”という行為で作り上げてきた“推し”という存在なんじゃないかと思った。
推しの実体は自分とは別の人である。彼には彼の生活がある、“解釈”ではなく、身近で“理解”できる人間がいるという事実はあかりを傷つける。あかりがどれだけ頑張って解釈しても理解者になることはできない。だけど、あかりが彼をわかろうとしたことがあかりを本当の自分として生きさせていたことは間違いない。


“推し”を自分の人生の基盤を表現する言葉『背骨』にしていたあかりは、最終的にはその背骨を失ってしまう。私はこの自分の骨を自分で拾う、このシーンがすごく切なくてでも『背骨』を失ったとしても、絶望のなかにいても、二足歩行できなくても、その先の人生が続いていくことが感じられたことは希望だった。

推し、そして我々ジャニオタの担当という存在は生身の人間に限りないフィクションだと思ってる。私たちだって、友達の前、恋人の前、家族の前、とみせる顔は違う。どれも本当でどれも嘘といえば嘘。だから表舞台に立つ彼らの目に見える言動をかき集めても、その人のすべてを身近な他人がわかることが無理なのと同じように“解釈”には限界がある。私は過去の発言ブログに「中身も最高な男」って書いたけどそれは表に出てる発言からみえる中身だからね。

私は解釈してわかったような気になっていても、「え!レイ派じゃなくてアスカ派だったの!?」みたいな、まぁそれは例えばだけど裏切られる瞬間がむしろ面白いと思うし、永久に振り回され続けている。なにより、なによりも、私はあかりのように自分の体重すべてをそこに預けることはもう無いと思う。ふとした時にバランスを崩し、自分がバラバラになる感覚はもう味わいたくない。それでも自分の魂を揺さぶった誰かのことをわかりたいと願う気持ちはやっぱり愛おしいと思う。

推しという存在には、いつか必ずくるであろう別れがつきまとう。文中にもあるけど、自分が追いつけなくなったり飽きちゃうかもしれないし、解散かもしれないし脱退かもしれないし、もしかしたら…。だけどきっとその別れの日まで彼がどういう人なのか、どういうときに喜怒哀楽を感じ、なにに惹かれ、どういう姿勢でステージに臨むのか。発言もそうだし行動もパフォーマンスから読み取れるものも。それを知ることができたときに喜びを感じ続けるのはあかりと同じ。
途方もなくて、一方通行で、結局それに意味なんてなかったとしてもきっと私もわかりたい、知りたいと求め続けるんだろうな、と思った。